男子プロテニス協会のATPは23日に公式サイトで、世界ランク26位の
錦織圭がツアー初優勝を飾った2008年のデルレイビーチ・オープン(アメリカ/デルレイビーチ、ハード、ATP250)を特集した。
当時世界ランク244位の錦織は下部大会を中心に転戦しており、2週間前にはチャレンジャーの予選3回戦で敗退していた。
ATPには、当時を振り返る錦織らのコメントが掲載されている。
「あの時、コーチにデルレイビーチには出場したくないと言っていた。なぜなら、その大会はレベルが違うし、勝てるはずもなかったから。それでもコーチに出場するよう強く勧められた」
18歳の錦織は予選を勝ち抜き、本戦2回戦では12度のブレークピンチをすべて切り抜けてフルセットで勝利。準決勝では
S・クエリー(アメリカ)に4本のマッチポイントを握られる崖っぷちから逆転勝ち。
錦織は「自分はチャレンジャーで、彼(クエリー)は自分より素晴らしい選手だった。自分には全くプレッシャーもなく、失うものはない状態でプレーしていた。だから、窮地でも自由にプレーしていたし、きっと自分の方が攻撃的なテニスをする勇気がよりあったと思う」
決勝で錦織は当時世界ランク12位の
J・ブレイク(アメリカ)を3-6, 6-1, 6-4の逆転で破り、悲願のタイトル獲得を果たした。
ブレイクは「優勝する大きなチャンスだと思った。決勝戦で予選勝者との対戦だったから。彼(錦織)は素晴らしいプレーで僕を倒した。陣営へ戻ると、兄からあの選手(錦織)はきっと素晴らしい選手になるはずだと言われたのを覚えている」と振り返った。
クエリーは「彼(錦織)はブレイクも倒した。ちょっとショックだった。でも振り返ると、大きなショックではなかった。彼は素晴らしいキャリアを築いている」
当時、錦織は『プロジェクト45』を組み、
松岡修造の世界ランク46位を抜くことを目標としていた。
この結果、錦織は1992年の松岡修造以来2人目となる日本人男子選手のATPツアー・チャンピオンとなり、1998年に16歳で初優勝を飾った元世界ランク1位の
L・ヒューイット(オーストラリア)以来の最年少優勝者となった。
2010年から錦織のコーチについているD・ボッティーニは「本当に凄いことだった。体格もあまり大きくなかったと記憶している。とても痩せていながら、大柄な選手たちと対戦していた。それは本当に素晴らしかった。とても凄いことだった」と当時について語った。
錦織は、同年の全米オープン(アメリカ/ニューヨーク、ハード、グランドスラム)で1937年の山岸二郎以来、オープン化以降日本人男子として初の4回戦に進出。さらに、2011年の上海ロレックス・マスターズ(中国/上海、ハード、ATP1000)準決勝進出で、松岡の日本人男子最高位の記録を塗り替えた。
昨年8月から右手首のけがでツアーを離れていた錦織は、現在世界ランキングを26位まで落としているが、2015年3月には自己最高の4位を記録。これまでツアー11大会でタイトルを獲得しており、2014年の全米オープンでは準優勝を飾った。
今年は、2月のRBCテニスチャンピオンシップス・ オブ・ダラス(アメリカ/ダラス、室内ハード、ATPチャレンジャー)で復帰後初優勝を飾り、ツアー復帰戦のニューヨーク・オープン(アメリカ/ニューヨーク、室内ハード、ATP250)では4強入り。今後は26日に開幕のアビエルト・ メキシコ・テルセル(メキシコ/アカプルコ、ハード、ATP500)に出場予定。
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