月曜日に全米テニス協会が
P・マッケンロー(アメリカ)氏の後任として選手育成部門のジェネラル・マネージャーに新たに任命したM・ブラックマン氏が、その職に就くことに対し自身の思いを語った。
「窓口の問題なのです。我々はこれまで、
P・サンプラス(アメリカ)、
J・クーリア(アメリカ)、
A・アガシ(アメリカ)、D・ウィートン、
M・チャン(アメリカ)、そしてその後も
A・ロディック(アメリカ)、
M・フィッシュ(アメリカ)、
J・ブレイク(アメリカ)らに恩恵を受けて来た。
S・ウィリアムズ(アメリカ)、
V・ウィリアムズ(アメリカ)にも恩恵を受けて来た。」と、電話でのインタビューでブラックマン氏が語る。
続けて「しかし今、協会の世界レベルの選手育成を促進する役割はより一層大きなものとなっている。そのために、6年前にパトリックが任命された時にその窓口を開いたのです。今はその成果を感じ始めているのです。」と加えていた。
その試みは、全米テニス協会からのガイダンスと選手個人のコーチと共に行われる個々の努力とのバランスを見付け出している。近年協会はより協会中心なやり方を試みて来ていたが、今は選手が各々の練習拠点で受けている指導をどのようにサポートするかに力を注いでいる。
ブラックマン氏はその両面でのバックグラウンドを兼ね備えている。メリーランド州のカレッジパークにあるジュニア育成センターの会長をしながら、全米テニス協会が全米各地で行った最高のプログラムと提携する事も計画していた。
ブラックマン氏は2009年に全米テニス協会で最初に働き始め、地元密着型のトレーニング・センターを展開するアイデアの実施を見届けて来た。有能な選手育成部門の責任者として彼は、コーチ育成の手助けや、選手育成部門の多様性や包括的努力も導いていた。
しかし2011年の終わりに、フロリダ州ボカラトンで自身のテニス・アカデミーを開設するために全米テニス協会を後にしていた。
「我々が選手、家族、そしてコーチに関わる方法には柔軟でなければならない。特定のやり方での解決法ではいけない。今のテニスの方向性やトップ選手の育成に必要な援助として、協会の助けがなければかなり難しいのです。」とブラックマン氏は自身の気持ちを語っていた。
ブラックマン氏は加えて、全米テニス協会は若い選手を育成するプロセスにより重きを置く必要があり、すぐに公式戦でのレベルアップを求めてはいけないとも語る。トップ選手達で年齢を重ねてからピークを迎えている事を考えても、より多くのアメリカ人選手がツアーで活躍するには、大学がそれを導く1つの場所になるかも知れないとも感じている。
7度のグランドスラム優勝を持つJ・ マッケンローの実の弟であるパトリック・マッケンロー氏は現職には6年半務めていたが、昨年9月に職を退く事が明かされていた。 その時彼は、個人的かつプロフェッショナルな理由として、全米テニス協会が6千万ドル(約71億5千万円)をかけて計画を予定しているフロリダ州オーランドで建設されるテニスセンターにフルタイムで基盤を置けないと語っていた。
マッケンロー氏は後任への引き継ぎなどのために、全米テニス協会にはしばらく籍を置くとしている。
ブラックマン氏はこれまでもアカデミーでジュニアのコーチとして指導を続けたり、全米テニス協会でも働いた経験があり、新しく任命された選手育成部門のジェネラル・マネージャーとして、その経験を生かして行く。
2012年以降、アメリカ人男子選手は1人もグランドスラムでベスト8にすら入っていない。2003年の全米オープンでA・ロディックが優勝してからは、グランドスラムでのタイトルを獲得した選手もおらず、アメリカ男子テニス界の低迷が囁かれている。
そのような現状を打破するために、45歳のブラックマン氏は、次世代のアメリカ人選手のスターを養成しようとする協会を助けるために、最善の方法を見付け出す事を期待されている。
ブラックマン氏はジュニア時代、アガシやクーリアらと共に、ニック・ボロテリー氏の元で練習していた選手で、当時の16歳以下の部で優勝をした経験を持つ。スタンフォード大学時代には、全米大学選手権であるNCAAで同大学を2度のチャンピオンへ導いていた。1989年から1995年まではプロとしてツアーを回り、1994年には自己最高位の158位を記録していた。引退後は大学でコーチとして指導を行ってもいた。
■関連ニュース■
・米 選手育成部門の後任が決定・マッケンロー 「不可能ではない」・錦織、マッケンロー戦「光栄な事」
■最新ニュース■
・ヒンギス 17年ぶりフェド杯出場・ダニエル 太郎 元9位破れず・ティプ 単の復帰戦で勝利飾る
■最新動画■
・昨シーズンに躍進したヒラルド特集・ツアー初優勝の34歳が最年長記録達成