ウィンブルドンの興奮を、東京でも一緒に味わえるイベントが2006年に続き2007年も開催。AIGオープン会場へGO!。
ウィンブルドンの歴史

ピート・サンプラス
Pete Sampras

Getty Images
シングルス優勝:93, 94, 95, 97, 98, 99, 2000
14のグランドスラム・タイトル、うち7つがウィンブルドン優勝というピート・サンプラスは、男子テニス界ではいかなるチャンピオンをも凌駕する記録を保持している。もちろん記録だけをとっても彼の偉大さが分かるが、記録がチャンピオンの全てではない。彼の試合をコートサイドで間近に見ると、いかにその情熱、恐れ、血と涙とがチャンピオンたる者と普通のプレーヤーとを分かち、そして真に偉大なる王者とチャンピオンとを分かつかということをまざまざと知らされる。

サンプラスと情熱とは一見すると結びつきにくいかもしれない。事実彼はコート上で感情をあらわにするタイプではなかった。しかしその内面に秘める炎なくしては、いかなる困難をも打ち砕いていくだけの闘志は沸いてこなかったであろう。彼の一生は偉業の達成とその防衛のために捧げられた。1993年から98年までの6年間、彼の一挙手一投足は全て勝つことだけに費やされ、そして世界No.1であり続けた。
その期間、ウィンブルドンでは5度、そしてUSオープンで3度、全豪オープンで2度というタイトルを勝ち取った。その中でもやはりウィンブルドンこそが、彼にとってのホーム・コートだった。
全仏オープンではいつもパッとせず、毎年バツの悪そうな面持ちでロンドンに降り立つのが常だった。しかし全英テニスクラブの門をくぐるやいなや、彼の鼓動は高まり、既に違う人間になっていた。怪我をしていても勝ち、スランプに陥っていても勝ち、評論家達がこき下ろしていても勝った。センターコートにサンプラスを連れて行けば、何もかも止めることができなかった。一本足でも目隠ししてでも、彼の勢いは止まらなかった。

1999年の対アンドレ・アガシのウィンブルドン決勝は、ウィンブルドン史上永遠に語り継がれるような対決となった。その年の前半は極端なスランプで、優勝もできず、ただただ低空飛行をつづけていた。ようやく芝のシーズンになり、ウィンブルドン前哨戦のクイーンの大会で優勝すると、なんとか調子を取り戻してきたばかりだった。そして、試合を重ねるごとに彼本来のテニスがよみがえり、見事アガシとの決勝にたどり着いた。
一方のアガシはと言えば、こちらも大スランプを経験し、ランキングも141位まで落とした後、奇跡の復活とも言える全仏オープン制覇を遂げて、チャンピオンとして再び返り咲き、その勢いでウィンブルドンも勝ちあがってきていた。
二人の決勝が始まった。まさにピークにあったアガシは、いきなりサンプラスのサーブで40-0のブレークポイントを握るなど、圧倒的な展開で戦いの口火を切った。
その時、サンプラスは単なるチャンピンを超え、天才の域に達した。そのブレークポイントを凌ぐと、サンプラスはまさに「離陸」した。この豹変ぶりに、さすがのアガシも一体何が起きたのか分からず、ただただボールを追いかけたが、気がつくと既に第1セットを落とし、第2セットでもサンプラスにブレークを許していた。アガシのプレーがまずかったのではない。サンプラスがどうしようもないほどすごかったのだ。

「今日のサンプラスは、あたかも水の上を歩くような奇跡を起こした。」と、アガシは後にこの瞬間を振り返って語った。それに対してサンプラスは、「時々自分で自分のことに驚くことがある。」と語っている。

翌年サンプラスは、パット・ラフターとの熱戦の末、ウィンブルドンで最後となるタイトルを勝ち取ることとなる。この時、サンプラスは背中に大きな怪我をしており、三月以来全くタイトルがなく、ウィンブルドンでも勝ち目がないと見られていた。前年優勝したクイーンズでも敗れていたが、しかし全英テニスクラブでは何がしか奇跡を呼び起こすのがサンプラス。大会前半の苦戦を乗り越え、見事決勝にたどり着くと、テニス史上に新たな一ページを書き刻んだ。この年の優勝で、グランドスラム13勝目を上げ、ロイ・エマーソンの持つ記録を破った。その優勝をもぎ取った瞬間、10年以上に渡り耐えに耐えてきた感情をついに爆発させるかのように涙にくれ、スタンド上方で見守っていた両親の元に駆け上がり抱き合うチャンピオンの姿があった。

引退直前の対戦では、2002年のUSオープンでアガシを破り、14度目のグランドスラム・タイトルを手にした。

designed by JFC Sports Vanguard, Inc. Copyright reserved 2006-2007