マルチナ・ナブラチロワはウィンブルドンでシングルス9回の優勝という不倒記録を持っている。
30年以上もテニス界のトップを突っ走しる彼女にも暗い時代はあった。10代で祖国チェコを捨てアメリカに帰化。孤独に苛まれ、ジャンクフード漬けとなった生活は心身ともに異変をきたした。その後、自らの性的志向で悩み続ける日々が続いた。
しかし、彼女には自分のネガティブな側面を追いやり、テニス選手として情熱と実践をもって戦うだけの強固な意志があった。運動能力だけをとってもまさに革命的で、彼女が生んだ起伏に富んだ攻撃的なテニスは、とくにウィンブルドンにはうってつけであった。
1972年、15歳でチェコの国内選手権で優勝、翌年にはプロ転向した。そして74年にはプロとしての初タイトルをフロリダ州オーランドで勝ち取った。
75年には全豪オープン、全仏オープンと立て続けに準優勝。そしえ迎えたUSオープンでは、全仏オープン決勝の相手クリス・エバートと準決勝で再び顔を合わせたが、またもや敗れた。そしてその足で移民局に向かったナブラチロワは亡命を申請し、1ヶ月後にグリーン・カードが降りた。
ナブラチロワのグランドスラム初タイトルは78年のウィンブルドンで訪れた。決勝では宿敵エバートをフルセットの末に破り、同時に初めて世界ランキングNo.1に上り詰めた瞬間だった。その翌年もエバートを決勝で破り、2連覇を成し遂げた。
80年代に入るとまさにナブラチロワの時代となった。全仏オープンを除く3つのグランドスラムを制覇した83年はシングルスで通算86勝1敗という奇跡的な記録を残している。それに前後する82年から84年の3年間、シングルスでは合計6回しか負けていない。
83年のウィンブルドン、USオープン、全豪オープン(当時は12月に開催)、そして84年の全仏オープン、ウィンブルドン、USオープンとグランドスラムを6大会連続優勝。その年の全豪オープンをとれば念願の年間グランドスラム達成でもあったが、準決勝でヘレナ・スコバに敗れ、連勝記録も74で止まった。
ダブルスにも積極的だったナブラチロワは、パム・シュライバーとのペアで83年から85年にはダブルスで109連勝、84年はダブルスで年間グランドスラムを達成している。
ナブラチロワの独裁状態も87年のシュテフィ・グラーフの登場(全仏オープン決勝でナブラチロワを破る)で二党時代になった。同年はウィンブルドン、USオープンともに両者の決勝となり、いずれもナブラチロワが勝ったものの、年間を通じて安定して勝利を上げていたグラーフが年末ランキングではNo.1の座を奪った。その後グラーフは、ナブラチロワの156週連続・合計331週間を抜く186週連続・合計377週間世界ランキング1位であったが、シングルス優勝数では107とナブラチロワの167には及ばなかった。
ナブラチロワの最後のウィンブルドン・シングルス・タイトルは90年、33歳のときだった。そして94年に再び決勝に勝ち上がったが、フルセットの末コンチータ・マルチネスに敗れた。その年、ナブラチロワはシングルス・ツアーから退いた。
しかし40歳を超えた今も彼女のテニスに対する情熱と実績は衰えを見せない。
2003年はその象徴的な年で、ウィンブルドン混合ダブルスでレアンダー・パエスとペアを組み46歳261日で見事優勝、グランドスラム史上最年長優勝を記録した。(これにより、ウィンブルドンでのタイトルは20となり、ビリー=ジーン・キングの記録と並んだ。)また同年には全豪オープンでも同じペアで優勝しており、これにより彼女は全グランドスラムで全種目(女子シングルス、女子ダブルス、混合ダブルス)の制覇を達成した。合計で58度のグランドスラム優勝を誇る。
しかし、彼女の本当の偉大さは記録ではなく、彼女の「無形」の素質そのものだ。彼女には、謙遜と誠実さ、そして弱さとが共存しており、スーパースター然とした距離感がなく、コート内外を問わず場を明るくするような存在だ。
パエスと混合ダブルスで優勝した際も、「最初はまさか優勝できるなんて思いもしなかった。ただ試合にでたかったの。今の私にどれだけできるか見てみたい、それだけだったわ。」と語る姿にこそ、等身大のナブラチロワがあった。