シュテフィ・グラーフは、その輝かしいキャリアの中で、ウィンブルドン・シングルスで7回優勝しており、うち88年にはゴールデン・グランドスラムも達成している。まさに一時代を築いた彼女は、通算で22ものグランドスラム・タイトルを獲得するに至った。これはマルチナ・ナブラチロワの18のタイトルをも超える偉業である。(ダブルス・タイトルを加えると、ナブラチロワが圧倒。)
グラーフがグランドスラムにデビューしたのは83年、彼女が14歳のときだった。2年後にはUSオープンでベスト4進出を果たすなど、めきめきと頭角を現していった。その穏やかで控えめな表情の奥に秘めた決心の堅さが既に感じられた。
彼女はナブラチロワを「パーフェクトなゲームをする選手」として尊敬し、ジミー・コナーズの「闘志」や、ジョン・マッケンローの「タッチ&フィール」をも見習った。しかしその頃、「まだ芝の上では4回くらいしかプレーしたことがない。」と語っていた彼女自身は、自分がウィンブルドンで大きく花を咲かせるとは思ってもいなかったようだ。
それもあながち間違いではなかった。彼女がウィンブルドンで初タイトルを取ったのは1988年で、それまでにその他の4大大会では既に優勝経験済みであった。そして、その年こそが彼女のキャリアの頂点となった。女子では史上3人目となる年間グランドスラム達成、加えてソウル・オリンピックで金メダルも取るというゴールデン・グランドスラムを果たしたのだった。
彼女は世界No.1として、最長記録の377週間もの間君臨、総獲得タイトル数は107にも及ぶ。ITFからも世界チャンピオンとして7回にわたり表彰され、これもまた記録である。
そんな彼女も96年頃から怪我に悩まされるようになり、膝や足の手術を何度も受けることに。腰痛にも悩まされ、最後は99年サンディエゴで2回戦の対エイミー・フレイジャー戦で敗れたのを最後にコートから去った。
非常に多くのファンを持った彼女だが、93年ハンブルグでの対モニカ・セレス戦のコートチェンジの際に、熱狂的なファンがグラフが世界No.1に再び返り咲くのに役に立ちたいとばかりに、セレスの背中を刃物で刺すという衝撃的な事件も起きた。
さて、ウィンブルドンでは7回優勝しており、その最後の出場となった99年も決勝進出したものの、リンゼー・ダベンポートに敗れ準優勝に終わった。その直前には全仏オープンでマルチナ・ヒンギスを下して優勝していた。(当時ランキングNo.1だったヒンギスは、あと3ポイントで全仏オープン初制覇にまで迫っていたところで逆転されたのが響いてか、同年のウィンブルドンでは1回戦敗退を喫している。)
2001年10月にはアンドレ・アガシと結婚、同月男の子が生まれた。
引退、そして結婚と、グラーフは自分がスポットライトを浴びるのではなく、アガシがプレーするのをスタンドから応援する立場になった。その後、一時はアガシが、「今度僕が全豪オープンで優勝したら、二人でペアを組んで全仏オープンのダブルスに出るかもしれないよ。」と発言して世界を沸かせたが、実際はアガシは全豪オープンで優勝したものの、二人のダブルスは実現しなかった。
勝っても負けても常に気品を持ち続けたグラーフは、女王でありながらもその名声に溺れることなく、周りをいつも思いやる行動で、コートの内外を通じて尊敬され愛された。もちろんコート上では、あの強力なフォアハンドでもって、テニス史上不動の地位を確立して。