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ウィンブルドンの歴史

クリス・エバート
Chris Evert

Getty Images
シングルス優勝:74, 76, 81
シングルス準優勝:73, 78, 79, 80, 82, 84, 85
ダブルス優勝:76
クリス・エバートは1972年ウィンブルドンに第4シードで初出場した。17歳のときだった。その年は準決勝でディフェンディング・チャンピオンのイボンヌ・グーラゴンにフルセットの末に敗れたが、それ以降エバートはウィンブルドンにはなくてはならない存在となった。当時は珍しかった両手打ちのバックハンドと、容姿とは似つかないくらいの冷徹さとで、89年までの18年間毎年ウィンブルドンで活躍した。その間10回もの決勝進出をし、3度優勝。83年に3回戦負けを喫した以外は、ベスト4以上の成績を残すという偉業を果たした。フロリダのクレーコートで育った細身のベースライナーからは、想像もできない記録だった。

2度目のウィンブルドン出場となった73年(第4シード)は、準決勝でマーガレット・コートを大接戦の末に下して、初の決勝進出を果たしたものの、ビリー・ジーン・キングの前にトロフィーは諦めざるを得なかった。しかし翌74年(第2シード)は3度目の正直で、決勝でオルガ・モロゾワを6-0, 6-4で倒してついに優勝を遂げた。その翌日はエバートと婚約していたジミー・コナーズがケン・ローズウォールを下して優勝を遂げ、二人は優勝祝賀晩餐会でともに祝杯を上げ、これぞ「ラブ・マッチ」ともてはやされた。

75年にはエバートは初めて第1シードとしてウィンブルドンに臨んだ。しかし準決勝でキングに連覇の夢を閉ざされた。翌76年もトップシードとして出場、その時は急成長著しいマルチナ・ナブラチロワやイボンヌ・コーリー(旧姓グーラゴン)らを下して見事優勝した。
77年は現エリザベス女王の戴冠25周年で、またウィンブルドン百周年という記念する年であったが、その祝福ムードをさらに盛り上げるかのように、第3シードだったバージニア・ウェイドが母国の声援を受けて決勝でエバートを6-2, 4-6, 6-1で下して、ウィンブルドン・タイトルを久しぶりに英国にもたらした。

それからの2年はナブラチロワとの決勝となった。
78年決勝では第3セットで4-2とエバートがリードしていたが、そこからエラーが続出、試合は大混戦状態に。最後はウィンブルドン初タイトルを狙うナブラチロワのほうが執念で上回ったが、試合が終わっても全くどちらが勝ったのか分からないほどの白熱した試合に観客も大いに沸いた。試合を終えたとき、両者は、二人ともが勝者だといわんばかりの大きな微笑で互いに抱きあった。そしてその晩の会食で、エバートは英国出身のジョン・ロイドと婚約関係であることを明かし、ファンを驚かせた。
79年は「ロイド夫人」として決勝に進出したエバートは、今度はナブラチロワに4-6, 4-6のストレート負けを喫することとなった。

80年は、ティーン・エージャーのトレーシー・オースティンの著しい活躍のため、エバートは第3シードとしてのウィンブルドン出場となった。そのため、トップシードのナブラチロワとは準決勝での対決となったが、この時はフルセットで宿敵を下した。もう一方のドローの山では芝を得意とするイボンヌ・コーリーが第2シードのオースティンを準決勝で倒していた。こうしてエバート対コーリーという76年と同じ顔ぶれの決勝が実現したが、今度はコーリーが雪辱を果たしウィンブルドン史上初の母親としてのチャンピオンになった。

81年は、エバートの3度目で最後のウィンブルドン・タイトルとなった。この年は第2シードのハナ・マンドリコバが準決勝でナブラチロワを下して決勝進出を果たしたが、エバートは経験の差をまざまざと見せ6-2, 6-2で圧勝、結果1セットも落とすことなく優勝を果たした。

エバートとナブラチロワのライバル関係はそれ以降も続き、82年、84年、85年と決勝で対決し、そしてタイトルを譲った。全仏オープンでは圧倒的な強さを誇ったエバートだが、芝ではナブラチロワのサーブ・アンド・ボレーのスタイルが有利であるとされた。しかし、エバートは持ち前の技と集中力とで、ウィンブルドンでも決して宿敵に引けをとることがなく、いつも接戦となっていた。(一方、クレーでは20年間のライバル関係を通し、ナブラチロワは3勝しかあげていない。なお、キャリア通算では、エバート35勝対ナブラチロワ43勝。)

ナブラチロワの運動神経の高さは前代未聞で、これには当然エバートへのライバル意識が働いていたに違いない。エバートもそれに応えるかのように、ウェイト・トレーニングを始めたり、サーブの強化に取り組んだ。必ずしも得意でないネットプレーも訓練を重ね、ここ一番ではリスクを犯してでも前に出てナブラチロワから点を奪うようにもなった。

昨今のペースの早い試合展開も楽しいが、以前のような「緊張の高まり」具合は薄らいでいると言うファンもいる。この二人の猫対ねずみともいえるような狡猾で起伏に富んだ戦いを目の当たりにしたファンにとっては、シャープなボレーあり、目を見張るパッシングショットあり、はっとするロブありというハラハラの展開こそがテニスの醍醐味だった。
エバートは当時を振り返り、「ナブラチロワのファンは彼女のテニスに対する姿勢を高く評価していたし、一方で私のファンも私の姿勢を評価してくれていた。それぞれの言動、スタイル、経歴などすべてにおいて。」と語っている。なお、あまり表立って語られることのない事実だが、二人は1976年ウィンブルドン女子ダブルスでパートナーを組んで優勝している。

エバートは1972年以降引退する89年まで、常にランキングで4位以内をキープし、キャリア終盤に至っても常にトップフォームを保った。85年全仏オープン決勝でナブラチロワを下し再び世界No.1に返り咲くと、その後ウィンブルドンでも最後の4年間ベスト4進出をし(準決勝で、86年にマンドリコバ、87年~88年ナブラチロワ、89年グラーフに敗れている。)、女王復活とも言われていた。
89年末にツアー引退を表明したときは、まさに人気絶頂にあったと言ってもいい。しかしながら、70年初頭のデビュー当時は、「アイス・ドール」と呼ばれ、決して表には見せなかったが、心無い聴衆からの辛い仕打ちに涙することもしばしばあったとのことだ。ジョン・マッケンローも、「彼女はあたかもおしゃれな殺し屋だった。言葉でつっておきながら、その間に相手をずたずたにするような。」と、当時の彼女の様子を語っている。

引退後のエバートは、オリンピック・スキー選手のアンディ・ミルと結婚し、3児の母となった。また、NBC(アメリカのTVネットワーク)の解説者となり、ユーモアと洞察力に富むコメントでファンを喜ばせた。また、クリス・エバート基金を設立し、これまで約15億円を集めて、南フロリダで社会的弱者や被虐待児童などの支援をしている。また、エバート・テニス・アカデミーを開設して、後輩の育成も行った。

74年にウィンブルドンのセンターコートで初めて頂点に立ってから16年間、エバートは未だに破られることのない記録をいくつも打ち立てた。
◆9割に及ぶ勝率。
◆全仏オープン最多の7回優勝。
◆同一サーフェスでの最多連続勝利(クレーで1973年から79年までの間に125連勝)
◆13年連続で毎年1つ以上のグランドスラムタイトル獲得
なお、グランドスラムのシングルスのタイトル数では、ナブラチロワと並んで18回の歴代4位となっている。

エバートは、芝においてはナブラチロワ、グラーフ、コート、キングなどと比較すると、記録的には見劣りする。しかしそれは相対的に見た場合であり、彼女が残した絶対的な功績と人気とは、まさにチャンピオンにふさわしいものだった。彼女の引退に際し、バージニア・ウェイドもこう語っている。「多分、テニス界において彼女は誰よりも好感をもって長く語られ続けると思うわ。」

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