マーガレット・コート(旧姓スミス)がウィンブルドンの地を最初に踏んだのは1961年、弱冠19歳ながらオーストラリア史上最高の女性プレーヤーとして注目を浴びた。それから75年にウィンブルドン最後の試合を行うまで、62のグランドスラム・タイトル(シングルス24、ダブルス19、混合ダブルス19)という不倒記録を打ち立てるまでに至った。
ニューサウスウェールズ州の田舎町で生まれたコートは、生家近くにテニスコートがあり、若い頃から元ウィンブルドン・チャンピオンのフランク・セッジマンの指導を仰ぐという恵まれた環境で育った。長身の彼女は、力と速さを持ち合わせ、しばしば男子のようなプレーをすると言われたほど、そのパワーは相手を圧倒した。
彼女が国際的な大会に出るようになった頃、年間に4大大会全てを制覇した女性選手は、1953年のモーリン・コノリー一人しかいなかった。ベースライナーだったコノリーと比較しても、サーブ・アンド・ボレーをスタイルとするオーストラリア人がまさかこの快挙を達成するとは、誰一人として想像だにしなかった。当の本人ですらそうだった。当時は4大大会のうち3つが芝の大会で、彼女のプレースタイルともマッチしていたことが功を奏したのかもしれない。
コートが最初のウィンブルドン優勝を飾ったのは1963年、ビリー・ジーン・キング(当時はモフィット姓)を破ってのことだった。翌64年は準決勝でキングを破るが、決勝ではマリア・ブエノに敗れた。そして続く65年ではその恩返しをして、ブエノを破って再度優勝した。
しかし、その後5年間はウィンブルドン決勝に進むことはなかった。66年準決勝ではキングに破れ、67年はヨットで国際的に有名なバリー・コートと結婚して1年間ツアーから遠ざかった。
そして70年、ツアー復帰後ようやくリズムを取り戻してきたコートは、またもやウィンブルドン決勝に勝ち進んだ。この年は全豪オープン制覇に始まり、そして苦戦はしたものの全仏オープンも手中に収めていた。(決勝では足の痙攣を堪えながら、3-6, 2-5の崖っぷちから、オルガ・モロゾワに逆転勝利した。)
ウィンブルドン決勝では、宿敵キングとの対戦となった。コートが第一線から離れているうちに、一方のキングはさらに力をつけていた。コートはかかとの負傷を抱えており、勝つにはできるだけ早い試合で決着をつけるしかなかった。その戦略は上手くいったものの、それでも試合は最終スコア14-12, 11-9の2時間27分に及ぶ大接戦となった。第1セットはブレーク合戦となり、キングがリードして4回のブレークを奪うと、コートもすぐに奪い返した。第2セットでも7-6でマッチポイントを迎えながら、結局5度目のマッチポイントまで勝利の女神は微笑まなかった。
コートはそれ以前に62年と69年に年間グランドスラムを達成するのではとの期待をもたれていた。しかしいずれの年もその期待に反してウィンブルドンでは敗れていた。そしてこの70年にはようやく3つのグランドスラムを制して全米オープンに挑むこととなった。そして、ロージー・カザルスをフルセットで下し、年間グランドスラムの偉業を達成したのだった。
それ以降さらにグランドスラムで3回優勝を遂げたコートだが、ウィンブルドンではトロフィーを掲げることはもうなかった。彼女が最後に全英テニスコートに姿を見せたのは1975年の準決勝で、飛ぶ鳥をも落とす勢いだったクリス・エバートに敗れたときだった。