「ジンボ」ことジミー・コナーズは、どこに出向こうが向かってくる敵をこてんぱにやっつける、まさにアメリカ西部劇ヒーローのガンマンのような存在だった。
「ストリート・ファイター」と称せられたコナーズは、キャリアを通じてT-2000というスチール製ラケットを使用していた。そのラケットに対する愛着は並々ならず、他に使う選手が誰一人いなくなっても、そしてメーカーが製造中止して以降も使い続けていた。
彼のプレーには、実はいくつも弱点があった。ストロークやサーブもトップレベルとは言えなかった。それでもそれを補ってあまる武器を彼はもっていた。それはダブルハンドのバックハンドから繰り出される強打と、コート奥から送られる正確なグラウンドストロークだった。また、運動神経に長け、まさかと思うようなボールまで追いかけてリターンしてきた。
ちょうど70年代のアメリカではテニスがブームになり、その潮流のなかで、コナーズはそのカリスマ性とまさに極上のエンタテーメントと言えるような試合ぶりとで、アメリカの、そして世界の人々の心を掴んでいった。
ビヨン・ボルグやジョン・マッケンロー、そしてイバン・レンドルらとのライバル関係は、メディアの恰好のネタだった。35歳以上のシニアツアーにおいても、これら競合選手たちの試合には多くのファンが詰め掛ける。このツアーは、コナーズが引退後に率先して設立に寄与したものだ。
コナーズはウィンブルドンには23年間もの間出場している。うち2度優勝し、3度準優勝している。初制覇は74年で、ケン・ローズウォールをストレートで下して優勝。
タイトル防衛がかかった翌年は、当然優勝の最有力候補だったが、決勝でアーサー・アッシュに1-6, 1-6, 7-5, 4-6で敗れた。アッシュの勝利は、「ウィンブルドンのセンターコート上で、史上最も優れた戦略による勝利」と讃えられている。
いつも観客とのやりとりが見ものだったコナーズだが、この決勝では劣勢のコナーズを応援しようとファンが「がんばれ、ジミー!」と叫んだのに対し、「僕だって一生懸命なんだ!」と叫び返すなどの場面も見られた。
2度目の優勝は82年で、その時はディフェンディング・チャンピオンのマッケンローを下してのタイトルだった。その前年にはボルグの6連覇を阻止して優勝したマッケンローだけに、同様に連覇の期待がかかっていたが、ファイター、コナーズの前にその夢は崩れ去った。試合は3-6, 6-3, 6-7, 7-6, 6-4のフルセットだった。
コナーズはキャリア通算で109ものタイトルを獲得した。グランドスラムでは、USオープンで5度(74、76、78、82、83年)、全豪オープンで1度(74年)優勝している。
尚、USオープンでは3つの異なるサーフェス(74年は芝、76年はクレー、それ以降はハード)を制覇している。最後のUSオープン・タイトルは31歳のとき。そして8年後の39歳でまたもや準決勝に進出(ジム・クーリアに敗れる)など、長いキャリアを通じて活躍した。
彼のプレースタイルは、決してクレー向きとは言えなかったが、それでもその闘志がゆえに全仏オープンでもベスト4に2度、ベスト8に3度進出している。
コナーズのキャリアの中で最もハイライトされるのは、やはり4大大会のうち3つを制覇した74年だ。実はその年は、コナーズはワールド・チーム・テニスとの契約をしたがために全仏オープンには出場が拒否されてしまうという不運があり、それがなければ年間グランドスラムも達成していたのかもしれない。
コナーズは今後も「ネバー・ギブ・アップ」の精神とともに、長く人々の記憶に留まるだろう。彼のプレーを見守るファンは、たとえ形勢が悪いときでも100%以上のもので戦い続けるファイターが、そこにいることを知っていた。