ビヨン・ボルグが打ち立てた5度のウィンブルドン・シングルス制覇は後にピート・サンプラスによって書き換えられたが、それでもいまだ不倒の記録をいくつも持つ。一つはウィンブルドンの勝利が76年から80年まで5年連続優勝であったこと、そして全仏オープンとウィンブルドンという対極のサーフェスを同年に続けて制覇するというド級の快挙を、3度も達成したことだ。後者に関しては、以前ロッド・レーバーが62年と69年に2度実現しているが、ボルグ以降は誰一人としていない。唯一アンドレ・アガシのみが全仏オープンとウィンブルドンの両方を制しているが、それとて7年間の間がある。
まさに天才とも言うべきボルグだが、同時にそれに伴う代償も大きかった。8年間という短いスパンに11回のグランドスラム優勝(全仏オープン6回、ウィンブルドン5回)を成し遂げたが、精神的にも肉体的にも限界に達してしまい弱冠26歳で引退してしまった。テニス史上、ボルグの前にボルグなし、ボルグの後にボルグなし、と言っても過言でないほど、彼のようにテニスに全身全霊を注いだ選手もいないだろう。
ウィンブルドンには73年から81年まで9年間連続出場し、通算で51勝4敗だった。75年準々決勝でアーサー・アッシュ(同年優勝)に敗れてから、81年決勝でジョン・マッケンローに敗れるまでの間、実に41連勝というとてつもない記録を残している。
あまり知られていない事実だが、その前の72年にはウィンブルドン・ジュニアで16歳にして優勝もしている。
ボルグはどちらかと言うとクレーで先にその名声を確立していった。74年には18歳の誕生日をはさんでイタリア・オープンと全仏オープンを勝ち取り、翌年も全仏オープンを制覇した。
76年ウィンブルドン。ボルグは第4シードで出場した。この年がウィンブルドン初制覇となるが、その過程では全7試合で1セットも落とさないという圧倒振りだった。ウィンブルドン史上これは4度目で、それ以降それを達成した選手は現れていない。
こうして、ボルグのスピード、トップスピンの利いたグラウンドストローク、そして精神的な強さなどが、クレーのみならず芝のコートでも圧倒的な力を発揮することが証明された。とくにその特筆すべき不屈の精神こそは、以降ウィンブルドンで崖っぷちに追いやられながらも4連覇を達成した最大の勝因だった。
翌77年は2回戦でマーク・エドモンドソンに0-2とリードされながらも逆転勝ち。準決勝では盟友ビタス・ゲルレイティスと対戦し、ファイナルセットでブレークダウンだったが、これまでボルグに勝ったことがなかったゲルレイティスが精神的に引けをとり、これも逆転勝利。
78年は全仏オープンを制した後のウィンブルドンだったが、出だしが良くなく、1回戦でビクトル・アマヤに2セットダウン。
最後の優勝となった80年はさらに象徴できだった。2回戦で対戦したビエイ・アムリトライには1-2でリードされ、第4セットもタイブレークでよもや敗れるところまで追い詰められての逆転勝ち。そしてマッケンローとの歴史的な決勝へと続く。
序盤から勢いに乗るマッケンローが6-1で第1セットを取ったが、続く2セットはボルグが7-5, 6-3で連取。そして第4セットも5-4でついにチャンピオンシップ・ポイントを2つ握った。しかし粘るマッケンローがなんとかそれを凌ぎ、結果ウィンブルドン史上でも最も激戦となったタイブレークへと突入した。そのスコアは18-16、5回にわたるマッチポイントを凌いで、マッケンローが奪った。
しかし、これで気落ちするようなボルグではなかった。ファイナルセットももつれにもつれ、ようやく8-6で決着をつけることができ、ボルグの5連覇が達成した。
その12ヵ月後、ウィンブルドン決勝は同じ顔ぶれとなった。しかし、その時、もうボルグにはそれまでのような情熱が見られなかった。ボルグはすでに燃え尽きていた。「こうやってまたウィンブルドン決勝にたどり着いたのに、なぜか僕には燃えるものがわいてこなかった。」と、ボルグは後に語っている。試合はマッケンローが4-6, 7-6, 7-6, 6-4で勝ち、ウィンブルドン初制覇した。
王者の最後はあっけなかった。
「81年のウィンブルドン決勝こそ、僕にとっては最も勝つべき決勝だった。なのに負けても実はなんとも思わなかった。それが自分の潮時だと悟った。」