今回ご紹介するのは、イヴァン・リュビチッチ選手です。今季優勝2回、準優勝6回を果たし、またデビスカップではクロアチアの中心選手としてチームを初の決勝進出に導いたリュビチッチは、ATP最終戦マスターズカップにも出場し、一躍トップ選手の仲間入りを果たしました。昨年11月には奥さんのアイダさんと結婚し、幸せ一杯のリュビチッチですが、幼い頃は苦労の連続でした。1979年3月19日生まれ、現在26歳のリュビチッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナのバニャ・ルカ生まれ。父マルコ、母ハジラ、現在はリュビチッチのヒッティング・パートナーを勤めている3つ年上の兄ヴラダンの4人家族です。テニスを始めたのは、リュビチッチが9歳の夏、父の勧めで何かスポーツを始めるというとき、テレビで見たウィンブルドンに感銘を受けて練習を始めたのがきっかけです。
地元のテニスクラブでプレーを始めたリュビチッチは、テニス選手としては比較的遅いスタートにも関わらず、メキメキと実力を付け、まもなくプライベートレッスンを受け始めると、12歳のときに地元の大会で優勝を飾り、ベオグラードの大会でも国際大会として初めて優勝しました。この活躍を見た父マルコは、リュビチッチにテニスの才能があることを見抜くと、息子に仕事をさせることなく、『セミ・プロ』としてテニスを続けさせます。しかし、時を同じくして、ボスニア・ヘルツェゴビナでは紛争が拡大し、1992年に一家はバニャ・ルカを離れる決意をします。しかし、一家全員で行くことはできず、父マルコが残ることとなりました。その後、母と兄とハンガリーやスロベニアなどを転々としたリュビチッチは、半年後の1992年にクロアチアで父と再会します。
翌年リュビチッチはテニスの才能を認められ、数名の亡命者らとともにとイタリアへのテニス留学をすることになりました。しかし、イタリア語を話せないリュビチッチは、試合を組むことも困難で、練習に明け暮れる毎日。他の選手がアメリカなどに活動の拠点を移していく中で、リュビチッチは孤独と戦いながら、クロアチアで戦っていくことを決意しました。家族のもとに戻ったリュビチッチは、それまで住んでいたリエカから首都ザグレブに移り住みます。そして、ジュニアトーナメントで次々と結果を出し始め、同年ウィンブルドンジュニアで準優勝、翌年には全豪ジュニアでベスト4、ランキングも2位まで上昇します。この頃、現在師事しているリカルド・ピアッティ氏と会います。最初は複数の選手を見ていたピアッティ・コーチですが、1997年10月からリュビチッチの専属となりました。翌年98年はリュビチッチは主にチャレンジャー大会などに出場しますが、結果は出せず。
そして1999年に転機がやってきます。ザグレブでのフューチャーズ大会で10連勝、予選から参加したフランスのチャレンジャー大会で初タイトルを獲得します。またラッキールーザーとして参加したモンテカルロの大会で当時世界2位のカフェルニコフから金星を奪ったのです。また、2000年にはクロアチア代表としてオリンピックに出場し、2001年にはリヨンの大会でATPツアー初優勝を決めました。この大会では、1回戦で当時世界1位のクエルテンを、2回戦以降もガウディオ、サフィンら大物選手をなぎ倒しての堂々の優勝でした。リュビチッチ自身、この優勝を特別なものだと語っています。
その後、ランキングも順調をアップさせ、昨年のアテネオリンピックではアンチッチと組んでダブルスで銅メダルを獲得。今年は地元ザグレブのチャレンジャー大会、メッツ、ウィーンの大会で優勝し、その他マスターズ大会準優勝2回など、大躍進の一年となりました。今季フェデラーを脅かした選手の一人として名前を上げられるリュビチッチの今後の活躍に期待です。
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