フランク・キャプラの映画「素晴らしき哉、人生!」では、町の名物男(ジョージ・ベイリー)が自殺を考える。その時天使(クラレンス)と出会い、映画はハッピーエンディングを迎える。
2001年のウィンブルドンで、ゴラン・イバニセビッチはベイリー、そしてウィンブルドンはクラレンスだった。そしてこの映画史上最高のハッピーエンディングと同様、この年の男子決勝はウィンブルドン史上でも忘れることのできないハッピーエンディングとなった。
カリスマ的な人気を誇るクロアチア出身イバニセビッチは、同じく高い人気を誇っていたオーストラリアのパトリック・ラフターと、試合時間3時間1分に及ぶ歴史的なフルセット戦を演じた。最後にイバニセビッチがマッチポイントをものにすると、センターコートは狂喜の渦に呑み込まれた。
それまでウィンブルドンで92年、94年、98年と3度決勝に進出したもののいずれも準優勝に終わっていたイバニセビッチは、この年世界ランキングを125位まで落としていたが、過去の栄光に敬意を表されワイルドカード(主催者推薦枠)が与えられた。あと2ヶ月で30歳、左肩の故障が長引き、ツアーでは早いラウンドでの敗退が相次いでおり、結局グランドスラム優勝がないまま引退を迫られている、とささやかれるようになっていた。そんなイバニセビッチの優勝を夢にも思う者は、誰一人としていなかった。
しかし、ウィンブルドンのコートに降り立ったイバニセビッチには、早くから波乱を呼び起こす徴候が現れていた。1回戦でスウェーデン出身フレデリック・ヨンソン、2回戦でスペイン出身カルロス・モーヤを下すと、3回戦では若手有望株のアンディ・ロディックの勢いを止めた。そして4回戦のグレッグ・ルゼッドスキ(イギリス)戦に際しては、ジョン・マッケンローをしてイバニセビッチが優勝候補だと予想させるに至っていた。その予想通り、イバニセビッチはルゼッドスキをストレートで下すと、準々決勝では第4シードのマラット・サフィン(ロシア)を下し、準決勝のティム・ヘンマン戦に臨んだ。ヘンマンには64年ぶりのイギリス人チャンピオン実現という大きな期待が寄せられていた。
準決勝はヘンマン主導で進んだが、母国イギリスにつきものの雨による中断のため、流れが変わってしまった。そして結局イバニセビッチが挽回し、7-5, 6-7(6), 0-6, 7-6(5), 6-3で勝ち、ラフターとの決勝戦への切符を手に入れた。
イバニセビッチは、自ら「僕の中には3人のゴランがいる。きちがいゴラン、それをなだめるゴラン、そしてその二人をしても気が落ち着かない時にサポートに入るゴランがね。」と語るように、普段から精神的に不安定なところがあり、決勝までの勝ち上がりで自信をつけているとは言え、依然として油断はできない状況だった。決勝戦の第4セットでサービスを落とすと、まさに一人目のゴランに支配され、怒りを爆発させた。
イバニセビッチはその時のことを、「落ちつかなければならないということは分かっていたし、怒ってもいけないということも分かっていた。だから自分にこう言い聞かせたんだ。『これが最後のチャンスだ。お前は勝つんだ。今年こそお前の番なんだ。』ってね。」と話している。
そうして残り2人のゴランに救われたイバニセビッチは、ファイナルセットで落ち着きを取り戻すと、6-3 3-6 6-3 2-6 9-7の大接戦を制して、初のグランドスラムタイトルを手中にした。
その時、会場は当のイバニセビッチをして「みんな気が狂ったのかと思った。」と言わせるほどの熱狂に覆われた。観衆は涙し、拍手喝采し、叫び、歓喜していた。イバニセビッチは、あたかも優しい巨人のように、両腕を大きく上げて、大喝采に答えていた。世界中が祝福につつまれた瞬間だった。
イバニセビッチは「この日を生涯忘れないだろう。」と語っている。彼は、心臓病でドクターストップがかかっているのも無視して観戦に来た父親を抱きしめ、この勝利を父親と、悲劇の結末を迎えた友人でNBAバスケットボール選手であったドラゼン・ペトロビッチに捧げた。
その優勝の後、イバニセビッチは故障に悩まされた肩の手術を受けることとなった。「腕一本」でもタイトル防衛を狙うと豪語したが、その夢はかなわず、翌年は欠場を余儀なくされた。
2001年のウィンブルドンは話題に事欠かない大会だった。
強力なサーブを持つアメリカのテイラー・デントやスペインのフアン=カルロス・フェレーロらが活躍、また地元イギリスのバリー・コーワンがピート・サンプラスを苦しめ、そのサンプラスはロジャー・フェデラーに敗れ、ウィンブルドン8勝の夢はかなわなかった。
女子ではアメリカのヴィーナス・ウィリアムズがシングルス2連覇を達成した。決勝の相手はジュスティーヌ・エナンだった。
97年チャンピオンのマルチナ・ヒンギスは第1シードでの登場だったが、1回戦でスペイン出身のダブルス・スペシャリストで、当時世界ランキング83位だったビルヒニア・ルアノ=パスクアルに敗れるという波乱の幕開けもあった。