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ウィンブルドンの歴史

1970年
年間グランドスラムのコート対キングの死闘
Court v King
14-12, 11-9

Getty Images
1970年の女子シングルス決勝は、マーガレット・コート対ビリー・ジーン・キングの歴史に残る名勝負となった。わずか2年前にプロの参加が認められた今大会の決勝が、カラー放送でよりドラマチックに人々に伝えられ、時代の変遷を印象付けた。

試合は14-12, 11-9の2時間28分にも及ぶ激戦をコートが制して勝利を収めた。このスコアは当時のウィンブルドン女子決勝では記録的なゲーム数であった。
第1セット、互いに4度サービスをブレークしあうという一進一退の攻防だった。第2セットでは、キングは負けたくないという不屈の精神で、あたかも自分の全人生がかかっているかのような戦いぶりで、窮地に追い込まれても粘り続け、6-7で最初のマッチポイントを、9-10の時点でも4度のマッチポイントをはね返すという大熱戦を繰り広げた。

勝負の第46ゲーム(第2セットの第20ゲーム)はまさに死闘を象徴するような展開となった。
コートが3本のスマッシュを決め、キングは15-40と追い詰められたが、そのマッチポイントをしのぎ30-40とすると、今度はサービスエースでデュースまで持ち込んだ。
コートはランニング・フォアハンドで4度目のマッチポイントを手にしたが、再びキングはスライスのバックハンドで攻撃、再びデュースへ戻す。コートは今度はフォアハンドのパスで5度目のマッチポイントを手にするが、キングはまたもや目が覚めるようなフォアハンドのクロスパスで応酬、再びデュースとなる。
コートはもう一度フォアハンドで攻撃し、6度目のマッチポイント。ここでコートは積極的に攻撃、最後はキングのボールがネットに掛かり、終に激闘に終止符が打たれた。

コートは疲れと安堵の混ざった様子で、ゆっくりとした足取りでネットに近寄ると、走って駆け寄るキングに “Well played(いい試合だったわ)”と声を掛けた。汗に輝くショートヘアのコートは、全力を尽くした満足のいく優勝だった。

コートは、同年行われた全豪・全仏両オープンに続く3つ目のグランドスラムタイトルとなり、そして同年その後の全米オープン決勝でロージー・カザルスを下して優勝すると、遂に年間グランドスラムを達成した。17年前のモーリーン・ コノリーに続く史上2人目の快挙だった。

コートは1962年、65年、69年には4大大会の3つを勝ち取り、生涯を通じて62ものグランドスラムタイトルを獲得した。コート(旧姓スミス)は、1963年のウィンブルドンでノーシードのキングを、1965年にはブラジルのマリア・ブエノをそれぞれ下して優勝した後、オリンピックのヨット選手であったバリー・コートと結婚し引退、1年間その結婚生活を謳歌した。68年はその引退からカムバックしての優勝だった。
コートはBBCに対し、「なぜだか分からないけど、夫に『もう1年、ツアーを回ってみようかと思うの。そうしたら、あなたも私がテニスでどんな生活を送っていたか分かるでしょ。』って言ったの。そして復帰後最初の年に世界ランキング2位にまで戻ったでしょ。で誰かに、『グランドスラムで年間3勝できたんだから、どうせなら4勝してみなさいよ。』って言われたの。」と語っている。

この年、ジョン・ニューコムも男子シングルスに優勝し、男女ともにタイトルはオーストラリア人の手に渡った。決勝の相手の同胞ケン・ローズウォールは、過去16年間で3度目の決勝進出だったが、1954年、56年といずれも準優勝に終わっていた。当時36歳のローズウォールは3度目の正直という気持ちでいたが、結局容赦ない第2シードのニューコムが優勝した。ニューコムは1967年にも、最後のアマチュア選手としてタイトルを獲得していた。
フルセットにまでもつれ込んだ決勝は、5-7, 6-3, 6-3, 3-6, 6-1というスコアに終わった。ニューコムは1971年にもウィンブルドン3度目の優勝を飾っているが、一方のローズウォールは1974年にも決勝に進出したが、ジミー・コナーズの前に屈し、遂にウィンブルドンのシングルスのタイトルを手にすることはなかった。
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