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ウィンブルドンの歴史

1975年
アッシュがコナーズを撃破して優勝
Ashe Upsets Connors
6-1, 6-1, 5-7, 6-4

Getty Images
1975年の男子シングルスは、短気で荒削りなディフェンディング・チャンピオンで第1シードのジミー・コナーズと、第6シードでテニス界きっての紳士であったアーサー・アシュとの対戦となった。この対決は、ウィンブルドン史上最もすばらしい決勝の1つとなった。

決勝では、コナーズが断然有利であると考えられていた。彼は今大会絶好調で、決勝に至るまでの6試合で1セットも落としていなかった。一方のアシュは、その春は調子がよかったものの、全体的には調子を落としていた。決勝への道のりはコナーズよりもずっと険しく、準決勝でも、第2シードのケン・ローズウォールを下した第16シードのトニー・ローシュと対戦、5-7、6-4、7-5、8-9、6-4のフルセットの接戦を強いられた。

決勝を翌日に控えた夜、アシュは、元デビスカップのコーチであったデニス・ラルストンと一緒に作った「集中すべき項目リスト」を手に、ドナルド・デル、チャーリー・パサレル、マーティ・リーセンとフレッド・マクネアたちと夕食をともにした。そこでそのリストを皆で話し合い、改訂版を作成すると、翌日の決勝の試合中、コートチェンジの際にそのリストを繰り返し読んでいた。この日の朝は、「負ける気がしない。」と豪語していたくらいだった。(スティーブ・フリンク著『The Greatest Tennis Matches of the Twentieth Century(20世紀の偉大なテニス・マッチ)』)

何度もコナーズと試合をしてきたアシュだが、この日初めて真っ向から打ち合わない戦略に出た。ワイドにサーブを打ち、リーチの狭いコナーズの左利き両手打ちバックハンドを狙った。そして返ってきたボールを打ち込み、ミスを誘った。さらにアシュは、コナーズの弱点、つまり低いフォアハンドを徹底的に狙った。再三再四、コナーズの嫌がるショットを繰り出した。

アシュはゲームプランを立てたのみならず、そのプランに完璧に則り、最初の2セットを6-1, 6-1でものにした。しかし、不屈の精神では最右翼のコナーズも簡単には諦めず、第3セットは7-5で奪い返した。
第4セットはコナーズが序盤でブレーク、3-0とリードした。その時点で王者コナーズは、試合の主導権を握り、このままファイナルセットへなだれ込むだろうと誰しもが思った。アシュは、「その時点で当初のゲームプランに固執すべきか、もしくはより早いペースで打ちに行くべきか悩んでいた。」とフリンクは同著に記している。「結局アシュは、第1、2セットで成功したゲームプランを続けることに決めた。その時0-3とリードされていたが、まだ1ブレークダウンに過ぎない。」彼の選択は賢かった。また、同年の全豪オープンでジョン・ニューコムがコナーズを下したときの戦法にならって、デュースコートからスライスサーブをワイドに打ち込んだのも功を奏した。
アシュは次の7ゲームのうち6ゲームを連取すると第4セットを6-4で奪い、黒人男性として初めてウィンブルドン男子シングルスで優勝した。

男子の決勝戦がまるで映画の1シーンを見ているかのようなドラマチックなものだったのに対し、女子決勝戦はあっけなく終わった。決勝に進出したのは第3シードのおなじみビリー=ジーン・キングと第4シードのイボンヌ・グーラゴン=コーリーであった。両者ともに見事な勝ち上がりで、キングは決勝までわずか1セットしか落とさず(準決勝の第1シードのクリス・エバートとの試合)、またグーラゴン=コーリーも失セットわずか2であった。しかし決勝はキングの一方的な試合運びとなり、イボンヌ・グーラゴン=コーリーを6-0, 6-1のスコアで圧倒した。キングはウィンブルドンの女子シングルスで合計6度の優勝を飾っているが、この年が最後の優勝の年であった。
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