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ウィンブルドンの歴史

1985年
ベッカーが17歳でチャンピオンに
Becker wins Wimbledon at 17
6-3, 6-7, 7-6, 6-4

Getty Images
ボリス・ベッカーが1985年にノーシードから17歳で男子シングルスに優勝したことは永く語り継がれるであろう。

1984年、ベッカーは初めてウィンブルドンに出場したが、3回戦で足首をひどく損傷し、3ヵ月の休養を余儀なくされていた。しかし復帰後の復調も目覚しく、85年全豪オープンでは堂々のベスト8、ヤング・マスターズでは優勝と、17歳にして前途を嘱望されていた。ベッカーは、「ぶんぶんサーブ」と呼ばれた強力なサーブ、強烈なスマッシュと手ごわいストロークを武器にパワフルなゲームを展開、芝のコートでは明らかに有利だった。ところが同年の全仏オープンでは1回戦でアメリカのビタス・ジェルレイティスを倒すなど、あらゆるコートで通用するオールラウンド・プレーヤーであることも証明した。

ウィンブルドンに先立つクィーンズ・クラブの大会では優勝して、芝での実力を証明していたにもかかわらず、当時世界ランキング20位だったベッカーはノーシードでの出場となった。実力からすると不当とも言われたシーディングだが、ベッカーはそれをコート上で証明するしかなかった。そこには第1シードのジョン・マッケンロー、第2シードのイバン・レンドルらが待ち受けていた。

第1週は悪天候に見舞われ、6日目が終わった時点でもベスト16のうち、男子は5人、女子は4人しか決まっていなかった。
ベッカーがベスト16で対戦したのは、第16シードのティム・メイヨットだった。ベッカーはすでに第7シードのスウェーデン出身ヨアキム・ニーストロムを2回戦で倒していたが、その試合はファイナルセット9-7という大接戦だった。
同様に、メイヨット戦でもベッカーは厳しい試合を強いられた。メイヨットはセットカウント2-1でリード、第4セットのタイブレークでも2本のマッチポイント手にした。実は第3セット、ベッカーは足首を捻挫し、棄権することも脳裏を過ぎった。しかし治療の後にプレーを続行し、結局フルセットでベッカーが勝利をものにした。

準々決勝でベッカーは、フランス出身左利きのアンリ・ルコントを4セットで下し、準決勝では、スウェーデン出身アンデルス・ヤリッドを同じく4セットで倒した。
もう一方の山では、南アフリカ出身の第8シードのケビン・カレンが番狂わせを演じ、準々決勝でマッケンローを下していた。マッケンローが決勝進出を逃がしたのは1978年以来のことだった。カレンは準決勝でも元チャンピオンのジミー・コナーズをわずか5ゲームしか与えずに完勝した。カレン27歳、ベッカー17歳という決勝対決が実現した。

ベッカーは決勝でもそれまでと同じプレーを見せた、強力なサーブ、ミドルボレー、そしてどこまでもボールを追い続ける姿は、10代の大器ベッカーの大志を象徴していた。そして遂に6-3 6-7 7-6 6-4のスコアでウィンブルドンの頂点に立った。

この勝利により数々の記録が生まれた。

まず第1に、ベッカーは17歳と227日という史上最年少での優勝だった。
第2に、ベッカーは初のドイツ人チャンピオンであった。
そして第3に、彼はノーシードから優勝した初めてのプレーヤーであった。
ベッカーは優勝までの7試合で合計292ゲームをプレー、7試合のうち4試合は4セットに、2試合は5セットにもつれ込む接戦であった。つまりベッカーは優勝まで合計8セットを落としていることになるが、これもまた1949年のテッド・シュレーダー以来のことだった。

1985年当時のベッカーは身長187.5cm、体重78.5kgで、その後翌年の1986年にはタイトルを防衛、1989年には再度優勝を遂げた。それに加えベッカーは、4度の準優勝と15回の出場、そして1999年に引退するまでにウィンブルドンで通算71勝12敗という素晴らしい成績を残している。
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