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ウィンブルドンの歴史

1980年
壮絶なタイブレークの末、ボルグが5連覇
Borg v McEnroe - The Tie-Break
1-6, 7-5, 6-3, 6-7(16-18), 8-6

Getty Images
1980年ウィンブルドン男子シングルス決勝、第4セットのタイブレークは、20世紀のスポーツ史上でも類を見ないほど壮絶なものとなった。立役者はディフェンディング・チャンピオンであったビヨン・ボルグとアメリカのジョン・マッケンローだ。

ボルグは当時24歳で、ウィンブルドン5連覇を狙っていた。一方21歳のマッケンローは、1977年に予選を勝ち上がって初めて準決勝まで進んでいたが、今回が初の決勝進出であった。第2シードのマッケンローは順当に勝ち上がり、準決勝ではジミー・コナーズも下していた。決勝に至るまでの失セットはボルグの2に対し、マッケンローの3であった。
この年もウィンブルドンはつきものの雨に見舞われ続けたが、男子決勝は予定通り第2週の土曜日に開催された。

マッケンローは、準決勝の対コナーズ戦ではその言動のために審判から警告を受けたほどで、決勝でセンターコートに入ったときも必ずしも観客に温かく迎え入れられたという訳ではなかった。しかし試合開始後数分もすると、二人の歴史的な激戦の前にそのような空気も完全に消え失せた。

出だしのボルグは不調だった。
マッケンローは第1セットを6-1で奪取すると、第2セットも有利な試合展開で進み、そのまま行けば2-0のリードを奪えるところまで行った。しかし第12ゲーム、ボルグは十八番のバックハンド・リターンでマッケンローのサーブを初めてブレークし第2セットを奪うと、突然火がついたように試合は白熱し始めた。

ボルグは第3セットも取り、セットカウント2-1でリード。その時すでに2時間が経過していた。両プレーヤーは緊迫するなかで最高のショットを繰り出した。そして第4セットでボルグが再びマッケンローのサーブをブレークし5-4とすると、試合は佳境に入った。
ほぼ流れにまかせて、ボルグは自らのサービスゲームで2本のマッチポイントを握った。しかし粘るマッケンローは、ダウンザラインに素晴らしいバックハンドを繰り出すと、続けて大胆なドライブボレーを決め、その後6ポイント連続で奪い、第4セットはタイブレークに突入した。

ウィンブルドンでは、タイブレーク制度は1971年に導入されている。導入当時は8-8でタイブレークとなったが、1979年以降は6-6でのタイブレークに変更となった。

ボルグ対マッケンローのこのタイブレークは、まさに歴史に残る名勝負となった。それは22分にも渡り、合計34ポイントが争われた。これはウィンブルドン決勝の中では最長記録であり、1ポイント1ポイントで天と地を行き来するかのような攻防が繰り広げられた。

ボルグにとってのマッチポイントとマッケンローにとってのセットポイントとが交互に訪れるという緊迫した状況で、最初に6-5と7-6でマッチポイントを握ったのはボルグだった。次はマッケンローが2度セットポイントをつかんだが、それもふいにした。その後、今度はボルグが3本のマッチポイントを握るものの、マッケンローがそれぞれサービスウィナー、ネットイン、そしてボレーを決めてタイに戻した。

そして今度はマッケンローがリードして、セットを決めに行った。セットポイントを4回失った後、5度目のセットポイントで、ボルグのサーブに対して、トップスピンのかかった鋭いリターンでボレーミスを誘い、18-16でついに歴史に残るタイブレークに終止符が打たれた。これでセットカウント2-2のタイ、試合は振り出しに戻り、ファイナルセットへ突入した。この時点ですでに3時間が経過していた。

ファイナルセットのボルグはまさに全身全霊で戦った。ファーストサーブの確率は80パーセントに達し、自らのサーブでわずか3ポイントしか落とさない完璧ぶりだった。マッケンローも力の限りを尽くしたが、前人未到のウィンブルドン5連勝を目前にしたボルグには「容赦」というものがなかった。8度目のマッチポイント、ボルグは十八番のバックハンドからのパッシングショットを放つと、マッケンローがローボレーでミスをし、最終スコア1-6, 7-5, 6-3, 6-7, 8-6の死闘に決着がついた。
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