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ノア、クーリアなど、2005年のテニス殿堂入り決まる。

ジム・クーリア
画像提供:Getty/AFLO

(アメリカ、ニューポート、ロードアイランド州)

13年間のテニス人生で23個のシングルスと6個のダブルス・タイトルを勝ち取ったアメリカ出身のJ・クーリアは、火曜日に世界テニス界の殿堂入りをした4人のうちの一人となった。 クーリアの他にはフランスのY・ノア、チェコのJ・ノボトナ、そして貢献部門にアメリカのE・バッコールズ・ジュニアらが選ばれ、7月の8日から10日に行われる殿堂入り式典に参加する。

殿堂入り選手は国際テニス・メディア委員会が投票し、また貢献部門はインターナショナル・マスターズ委員会によって選ばれた。どちらも75%以上の投票が必要だった。 「テニス殿堂50周年として、昨年は信じられない位素晴らしい一年だった。この勢いを継続するべく、7月の式典では新しく選ばれた4人のテニス人生を祝福しよう。」と、国際テニス殿堂の会長であるT・トラバート氏が語った。

34歳のクーリアは1988年にプロへ転向し、グランド・スラムでのシングルスの成績は118勝37敗で、1992年と1993年には2年連続で全豪オープンを制した他、1991年、1992年と全仏オープンにも優勝している。 1973年に現在のランキング・システムになって以降、クーリアは1992年にナンバー・ワンになった10人目の選手となった。その年は1位でシーズンを終え、ATPプレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞。また58週もの間1位の座に輝き、マイケル・チャン、ピート・サンプラス、アンドレ・アガシらとともに、米国の黄金時代を築いた。 すぐれたグランド・ストロークで知られる彼は、7年間もの間アメリカのデビス・カップのメンバーに選ばれ、1992年と1995年の優勝に大きく貢献した。

クーリア同様、ノアも23個のタイトルを獲得した。 1983年に37年の全仏オープン史上、初めてフランス人として優勝を手にし、優勝するまでにわずか1セットしか落とさない圧勝振りだった。12年のキャリアでトップ10に6回も入り、1986年には自己最高位の3位にまで上り詰めた。 44歳のノアは16個のダブルス・タイトルも勝ち取っており、1986年にはダブルス・ランキングで1位になりその後19週に渡りその座を守った。 1991年にはフランスのデビス・カップ・チームのキャプテンを務め、59年振りの優勝へ導いた。同時に女子のフェド・カップも率いて、優勝へ導く快挙を成し遂げた。

36歳のノボトナは1998年にウィンブルドンのシングルスを制し、同大会で4度ダブルスでもチャンピオンになるなど、12個ものグランド・スラム・ダブルス・タイトルを誇っている。 12年の選手生活で、ノボトナは24個のシングルス・タイトルと、実に76個ものダブルス・タイトルを獲得した。1991年から1998年の間にトップ10に7回も入り、1997年には最高位の2位にランクされた。ダブルスでは11回にもわたり、ナンバー・ワンの座に輝いた。 彼女は11回ものフェド・カップ・メンバーに選ばれ、1998年の優勝の立役者となった。1996年のオリンピックではシングルスで銅メダル、ダブルスで銀メダルを獲得した。

64歳でセント・ルイス生まれのバッコールズは1963年に初めて男子選手協会の会員になり協会を発足させた。男女プロ・テニスの発展を築き上げた先駆者で、1977年から78年にかけてワールド・テニス・チームのコミッショナーを務めるなど、プロとしての経営能力をスポーツに注いできた。 彼は1985年にマイアミでの大会であるナスダック100オープンの開催を始め、中南米の大会を運営するAltenisの立ち上げにも貢献した。 7年のプロとしてのテニス人生で、1960年に5位になるなど、トップ10に4回入り、1959年から60年にデビス・カップのメンバーとしてプレーをした。

国際テニス殿堂は1954年に創設され、1986年に国際テニス連盟によって公式のテニス殿堂として認められた。2005年に殿堂入りの4人を含め190人の選手が殿堂入りを果たしている。

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