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1996年の引退からおよそ12年後の2008年4月7日、現役復帰を発表したクルム伊達公子は日本人の女子テニス選手として史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした名選手である。1995年11月には自己最高ランキングである4位を記録し、日本テニス界の至宝と呼ばれる存在だった。
伊達はその代名詞ともなっている「ライジング・ショット」を武器に、世界のトップ選手まで上り詰めた。このショットは相手の打ったボールがバウンドした直後に打ち返す、非常に高度で当時としては革新的な技術であった。
京都府京都市出身の伊達は6歳のときにテニスを始めた。初めはプロを目指してはいなかったが、高校2年生のときに全日本選手権でベスト4に進出したのが転機となり、1988年に高校3年生でインターハイのシングルス・ダブルス・団体の3冠を達成すると翌1989年にプロ転向を果たした。
WTAツアーデビュー戦であった1989年のジャパン・オープンでいきなり準々決勝まで進出すると、その後の全仏オープンで予選を勝ち上がり本選2回戦まで進出するなどコンスタントに結果を残してきた。そして1991年、バージニア・スリムズ選手権で当時世界ランキング3位のG・サバティーニを準決勝で破り準優勝すると、ランキングも112位から32位まで上昇し、一躍世界のトッププレイヤーの仲間入りを果した。1992年にはジャパン・オープンでWTA初タイトルを獲得し、この年の「最も進歩した選手賞」(Most Improved Player of the Year)に選出された。
1994年1月にニュー・サウスウェールズ・オープンで海外初タイトルを勝ち取ると、日本人の女子テニスプレイヤーとして史上初のトップ10プレイヤーに。また全豪オープンでベスト4、全米オープンでもベスト8に進出し、その年のランキング上位16人だけが出場権を得るツアー最終戦に初出場を果たし、ベスト4まで進出した。
1995年、東レPPOで初優勝を飾ると、全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンではベスト8と日本人女子プレイヤーとしての記録を次々と塗り替え、11月に自己最高位である世界ランキング4位に上り詰めた。
1996年には当時の女王S・グラーフとの名勝負を繰り広げた。4月のフェド・カップでの対戦で7-6, 3-6, 12-10という大接戦を制し、日本を勝利へ導いた試合は、「有明の奇跡」として今なお語り草となっている。また、ウィンブルドンの準決勝では2日間におよぶ激闘を繰り広げるが惜しくも敗退、日本人初のグランドスラム決勝進出はならなかったが、そのテニスは間違いなく世界のトップレベルにあることを証明した。
そのキャリアが絶頂期にある中、同年9月24日に突如引退を表明。その年のツアー最終戦において当時16歳のマルチナ・ヒンギスとの試合が最後の試合となった。
12年ぶりの復帰戦でのクルム伊達
引退後は、1998年から「カモン!キッズテニス」という3歳から10歳の子供達を対象にしたテニスイベントを日本中で開催し、子供達にテニスの楽しさ、スポーツの楽しさを伝える活動をしてきた。2001年にドイツ人レーサーのミハエル・クルム氏と結婚後もその活動は衰えず、2002年には国際協力事業団(JICA)のオフィシャルサポーターに就任するなど、その活動は海外にも広がりを見せている。
また、2003年には園田学園女子大学や東海学園大学の客員教授に就任するなど、スポーツ以外にも活動の場を広げている。それと同時にテニス以外のスポーツにも挑戦をはじめ、2004年4月にはロンドンマラソンでフルマラソンに出場するなど、テニスプレイヤーとして一線を退くも精力的に活動してきた。
2008年3月に行われたグラーフ、M・ナブラチロワとのエキジビジョン・マッチに参加、この試合がきっかけとなり、4月7日に再びプロプレイヤーとしてテニスコートに立つことを電撃発表。テニス界への感謝と若手への刺激、そして新たなチャレンジへ向けての再出発を宣言した。12年ぶりの復帰戦となったカンガルーカップ国際オープンでは、シングルスを予選から勝ち上がり準優勝、奈良くるみと出場したダブルスでは優勝するなど、12年のブランクを感じさせない活躍を見せ、今なおテニスファンを魅了する力があることを証明して見せた。